秦氏(はたうじ)は、古代の氏族。東漢氏などと並び有力な渡来系氏族でもある。秦の始皇帝の末裔を称するが明確でない。
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日本書紀によると応神天皇14年に弓月君(ゆづきのきみ:新撰姓氏録では融通王)が朝鮮半島の百済から百二十県の人を率いて帰化し秦氏の基となったというが、加羅(伽耶)または新羅から来たのではないかとも考えられている(新羅は古く辰韓=秦韓と呼ばれ秦の遺民が住み着いたとの伝承がある)[1]。また一説には五胡十六国時代に氐族の苻氏が建てた前秦の王族ないし貴族が戦乱の中、朝鮮半島経由で日本にたどり着いたと言う説もある。この説に基づくと弓月君が秦の(初代の)皇帝から五世の孫とする記述に反せず、「秦」つながりで渡来した人々が勝手に「秦」を名乗り始めたと考えてもさほど矛盾はないが、根拠は少なく今後検証の必要がある。
ハタ(古くはハダ)という読みについては朝鮮語のパダ(海)によるとする説のほか、機織や、新羅の波旦という地名と結び付ける説もある。また、俗説の一つには、ハッティー(ヒッタイト)からきているというものもある。
その後、大和のみならず、山背国葛野郡(現在の京都市右京区太秦)、同紀伊郡(現在の京都市伏見区深草)や、河内国讃良郡(現在の大阪府寝屋川市太秦)など各地に土着し、土木や養蚕、機織などの技術を発揮して栄えた。山背国からは丹波国桑田郡(現在の京都府亀岡市)にも進出し、湿地帯の開拓などを行った。雄略天皇の時代には秦酒公(さけのきみ)が各地の秦部、秦人の統率者となったという。欽明天皇の時代には秦大津父(おおつち)が伴造となり大蔵掾に任ぜられたといい、本宗家は朝廷の財務官僚として活動したらしい。
秦氏の本拠地は山背国葛野郡太秦が分かっているが、河内国讃良郡太秦にも「太秦」と同名の地名がある。これを検討すると、河内国太秦には弥生中期頃の高地性集落(太秦遺跡)が確認されており、付近の古墳群からは5~6世紀にかけての渡来人関係の遺物が出土(太秦古墳群)している。秦氏が現在の淀川の治水工事として茨田堤を築堤する際に協力したとされ、現在の熱田神社が広隆寺に記録が残る河内秦寺(廃寺)の跡だったとされる調査結果もある。そして、伝秦河勝墓はこの地にある。また、山背国太秦は秦河勝が建立した広隆寺があり、この地の古墳は6世紀頃のものであり、年代はさほど遡らないことが推定される。秦氏が現在の桂川に灌漑工事として葛野大堰を築いた点から山背国太秦の起点は6世紀頃と推定される。よって、河内国太秦は古くから本拠地として重視していたが、6世紀ごろには山背国太秦に移ったと考えられる。
山背国においては桂川中流域、鴨川下流域を支配下におき、その発展に大きく寄与した。山背国愛宕郡(現在の京都市左京区、北区)の鴨川上流域を本拠地とした賀茂氏と関係が深かったとされる。秦氏は松尾大社、伏見稲荷大社などを氏神として祀り、それらは賀茂氏の創建した賀茂神社とならび、山背国でももっとも創建年代の古い神社となっている。秦氏の末裔はこれらの社家となった。
秦氏で最も有名な人物が秦河勝である。彼は聖徳太子に仕え、太秦に蜂岡寺(広隆寺)を創建したことで知られる。またほぼ同時代に天寿国繍帳(中宮寺)の製作者として秦久麻の名が残る。
『隋書』「卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國」に「又至竹斯國又東至秦王國 其人同於華夏 以爲夷州疑不能明也」と風俗が中国と同じである秦王国なる土地(瀬戸内海沿岸付近?)が紹介されているが、これを秦氏と結び付ける考えもある。また佐伯好郎は1908年(明治41年)1月、『地理歴史 百号』(主宰 喜田貞吉)に収載の「太秦(禹豆麻佐)を論ず」において秦氏は景教(キリスト教のネストリウス派)徒のユダヤ人であるとの説をとなえ、またルーツを古代イスラエルに求めたり、八幡神(やはたのかみ)信仰の成立に深く関わったと考える人もいるが、字音の類似などによる俗説の域を出ない。
八色の姓では忌寸の姓を賜り、その後、忌寸のほか、公、宿禰などを称する家系があった。
平安遷都に際しては葛野郡の秦氏の財力・技術力が重要だったとする説もある。平安時代には多くが惟宗氏を称するようになったが、秦氏を名乗る家系(楽家の東儀家など)も多く残った。東家、南家などは松尾大社の社家に、西大路家、大西家などは伏見稲荷大社の社家となった。伏見稲荷大社の社家となった羽倉家、荷田家も秦氏の出自という説がある。 また、高僧を含めて僧侶にも秦氏の出身者が、あまたいる。
秦氏が創建に関係した主な神社・寺院
神社
松尾大社
伏見稲荷大社
木嶋坐天照御魂神社(蚕の社)
大避神社
寺院
広隆寺
東漢(やまとのあや)氏は、『記・紀』の応神天皇の条に渡来したと記されている阿智使主(あちのおみ)を氏祖とする帰化系氏族集団である。
『古事記』には、4世紀末の応神天皇の時代に、倭からの要請もあり、新羅や百済から技術者・文人が多く渡来し、その中に「秦造の祖、漢直の祖、が渡来した」と。『日本書紀』応神天皇20年9月の条に、「倭漢直の祖の阿智使主、其の子の都加使主は、己の党類十七県の人々を率いて来帰した。」と伝える。
東漢氏は集団の総称である。東漢氏は「倭漢氏」とも記述された。六世紀末頃までには河内国を本拠地としていた漢氏と区別するために両氏はともに、東西を氏上につけて区別した。それまではどちらも漢氏であったと思われる。
阿智使主の末裔の漢氏は飛鳥に近い檜隈を拠点としたことから東漢氏となり、河内に本拠を持っていた漢氏は西漢氏となった。両氏とも「漢」と書いて「アヤ」と読ませていることから実際は朝鮮南部にあった加羅諸国のうちの安羅国(現在の慶尚南道咸安郡)を中心とした氏族が渡来してきた可能性が提唱されている。
つまり「安羅」が「アヤ」となり呼称となったということである。そして、それらのアヤ氏のなかで伝わっていた「先祖は朝鮮北部にあった漢帝国に属した帯方郡から渡来した」という伝説から「漢」という文字をあてるようになったのではないかと考えられている。
また、東漢氏の技能と百済の先進技術との関係であるが、「書紀」の継体の条の記述によると百済から五経博士「漢高安茂」という人が派遣されており、それ以前に派遣されていた博士「段陽爾」と替えたいと百済は申し出ている。「漢」という名称そのものが元来から百済にあった可能性も考えられる。
くわえて東漢氏系といわれる「七姓漢人」という氏族集団があり、その姓に「高」「段」があることから、「高」は「漢高安茂」に由来し、「漢氏出身の高安茂」と読み、「高」が氏で「安茂」が名である可能性も考えられる。また、「段陽爾」の氏は「段氏」であろうから、「七姓漢人」は、上記の百済から派遣された「漢高安茂」、「段陽爾」に由来する一族と考えても差し支えはないと思われる。
注:「七姓漢人」とは、朱・李・多・皀郭・皀・段・高の七姓からなる東漢氏系の氏族。
門脇禎二(京都橘大学教授)は「東漢氏はいくつもの小氏族で構成される複合氏族。最初から同族、血縁関係にあったのではなく、相次いで渡来した人々が、共通の先祖伝承に結ばれて次第にまとまっていったのだろう。先に渡来した人物が次の渡来人を引き立てる場合もあったはず」と考えている。
漢王朝との関係
東漢氏の「漢」が「後漢帝国」に由来するかであるが、伝説は伝説でしかない。系譜などから東漢氏は奈良時代になって漢王朝との関係を創作し権威づけを行っていったことがわかる。『続紀』には東漢氏の渡来に関して「神牛の導き」で中国漢末の戦乱から逃れて朝鮮に移住したことや氏族の多くが才能に優れて朝鮮で重宝されていたこと、聖王が日本にいると聞いて渡来してきたという伝承が記載されている。
待遇
阿智使主の直系の子孫は天武天皇より「忌寸」の姓を賜り、他の氏族とは姓で区別がなされることとなった。
「掬」の代に東漢直姓を賜った。
技術者として
技術的には東漢氏はそれ以前から先進技術をもっていた秦氏の新羅系精銅・製鉄技術よりさらに新しい百済系の製鉄技術をもたらしたと考えられている。
文人として
東漢氏の一族には東文氏があり、文人としての官人をも輩出している。七世紀から八世紀頃には内蔵省・大蔵省などの官人を多く輩出するなど、計数に明るい一族で高度な数的管理能力を持っていたと考えられる。
武人として
東漢氏は蘇我氏の門衛や宮廷の警護などを担当している。崇峻天皇暗殺の際にも東漢氏の「東漢駒」が暗殺の実行役となっており、蘇我氏の与党であったが、壬申の乱の際には、蘇我氏と袂を分かって生き残り、奈良時代以降も武人を輩出しつづけた。そして平安時代初期には蝦夷征討で活躍した坂上氏の苅田麻呂・田村麻呂親子が登場する。
東漢氏と坂上氏
東漢氏の宗家ともいえる系統は坂上直姓初代坂上直志努の兄で東漢直山木の曾孫である東漢直駒が崇峻天皇の妃である河上姫と不倫関係となり、蘇我馬子の指図もあって天皇を暗殺したが、その結果、東漢氏の宗家は没落した。そのため、東漢氏の宗家は次男の志努の系統である分家坂上氏にもたらされたという。
ただし、東漢直駒に関しては不明な点も多く、東漢直駒は坂上氏初代とされる志努の子で坂上宿禰田村麻呂の直系の先祖にあたる坂上直駒子に比定する説もあり、その説によると、坂上氏が蘇我氏と袂を分かった理由は蘇我馬子の命令を忠実に果たした坂上駒子を蘇我馬子が口封じに殺害したために坂上氏が蘇我氏に対して恨みを含んだからだとしている。
そのため、坂上氏は東漢氏の宗家ではなく、東漢氏は末弟の東漢直爾波伎が継ぎ、東漢直角古、東漢直久爾、東漢直福因と続き、東漢直福因(倭漢直福因)は608年の小野妹子の遣隋使の際に留学生として同行し、623年に帰国し、「唐国に留まる学者は皆学びて成業したので帰国せしむるべきであり、大唐国は法式備わり定れる国であるゆえ、常に通交すべきである」と朝廷に奏上したと日本書紀に記されている。
東漢氏から出た諸氏:坂上氏、平田氏、内蔵氏、大蔵氏、丹波氏、文氏、調氏、文部氏、谷氏、民氏、佐太氏など。